イベントレポート詳細Details of an event

第66回 AGC studio デザインフォーラム
AGC studio Exhibition No.15「新しい建築の楽しさ2015」展連動企画
「署名された「アノニマス」」

2016年1月14日(木)
講演会/セミナー

第二部 トークセッション

 

中崎 みなさんどうもありがとうございました。署名されたアノニマスという今回のテーマについて、青木さんの話の中で気になったことがあります。青木さんは「モノを重視して解像度を高める」といったことを言われましたね。私があるインハウスデザイナーと話していた時に「グラフィックデザイナーやアートディレクターが建築に関わってくると解像度が高過ぎて非常に住みにくい空間になる」、また「きれいだけれども、使いにくい感じがする」みたいなことを言われたんですよ。私はそれに同感で、自分ですべてをデザインするのではなく自分がデザインしていないものを受け入れたほうが、たぶん人は居心地がいいのではないか、そして人を重視したほうがいいのではないか、と思うのですが、そのことについて青木さんはどのように考えますか?

 

青木 確かに、つくり込まれた空間は息苦しくて、住み心地が良くない、という指摘に関しては同感です。先ほど紹介した「調布の家」では、リノベーションだったということもあるのですが、前提としては既存の躯体という他者を受け入れることは避けられません。また、ある種の閉塞感や息苦しさは、一から同じ作り手によって生み出されたものであるということが、そもそも諸悪の根源で、リノベーションであれば、自分がデザインしていないものも受容しながら、それらを自分がデザインしたものと等価に並べていく、という手法をとることになるわけです。その時点で自分以外のプレーヤーが参加していることになりますので、ある種の風通しの良さやおおらかさが担保されるのではないでしょうか。もう一点、そういう手法やスタンスはリノベーションに限らず、新築でも成り立つのではないか、と考えています。たとえば吉村さんが既製品のテント倉庫を受け入れる、と仰られましたけれど、あれは新築ですよね。自分がデザインしていないものを受け入れることは、リノベーションに限ったことではない。それをリノベーション時代の新築と名付けることもできるでしょうし、そこには、つくり込まれた世界の閉塞感を払拭するような手がかりがあるのではないかと考えていますので、先ほどのインハウスデザイナーの方の話とは、そもそもスタンスが違うと考えます。

 

中崎 青木さんからお二人の先輩に質問などはありませんか?

 

青木 吉村さんが、まず「テント倉庫を受け入れる」「他者を受容する」と仰っていました。その時の主体は、普通に考えると「設計者」ということになるわけですが、「他者を受容する」ということは、そのような設計者とモノの関係性だけではなく、モノとモノの関係性にも見出すことができると思いました。

 

たとえば、吉村さんのプロジェクトでは、火打が象徴的なエレメントになっていると思います。あの火打は、ある種の構造的な合理性から導き出されている一方で、適切な言葉ではないかも知れませんが、見方によっては、少し邪魔な存在=他者でもある。しかし、この火打が、ユーザーの振る舞いを喚起する重要なエレメントにもなっていると思うのです。このように、他者は、モノとモノの関係性の中に見出されるのではないでしょうか。そして、このような考え方は、モノが相対的に位置付けられているという意味で、中山さんが仰っていた建築を「つくる」と「現れる」の間に置くということにも通じるように感じました。 質問というよりは感想になってしまいましたが。

 

中山 少し脱線してしまいますけれど、ずいぶん前に映画についての原稿を頼まれたことがありました。そこで「リアルについて」、というタイトルで書きました。僕は「リアル」という言葉が苦手で、というのも、世間では二つの意味を混同して話されている感じがして嫌なのです。リアルが意味する1つは「現実性」だと思います。「これは本当のことだ」と思えるようなことですね。もう一つは「再現性」です。

 

例えば(映画における)「リアルな血しぶき」は現実性ではなく再現性です。この再現性が凄いレベルで達成されていると、時に人は「おおー、リアルだな」と言います。一方で、生き様が格好いいロックンローラーを見た時にも「リアルな男」などと言うわけで、このリアルは映画の血しぶきとは全く違います。この両方がリアルという言葉で片付けられていることが、なんだか居心地悪いのです。映画は基本的につくりものです。それを忘れさせるような演出を「リアル」とよく言いますが、再現性としてのリアルが、必ずしも現実性としてのリアルな映画を作るとは限りません。だからむしろ、「これはつくりものである」ということを監督が告白してくることから始める映画の方が、むしろ僕は気持ちよく観られる、とその原稿では書きました。

 

そこで例に挙げたのは、ウェス・アンダーソンという監督の映画だったのですが、仲間を伝説の人喰いサメに食われた海の男たちが、そのサメに復讐をする、というようなストーリーで、設定からしてめちゃくちゃだし、空想のサメに仲間を殺されてしまう話でありながら、途中で流れ弾に当たった仲間が、脇腹を押さえながら半笑いでずっと走っていたりする。そういう人の生き死にまででたらめな映画です。つまり、再現性としてのリアリティーの方を、わざとはちゃめちゃにつくってあるわけです。だけどなぜだか、その1本を観終わると、そこに「家族って?」という人間の普遍的なテーマというか、つまり家族とは単に血のつながりなのか、それとも、もっとそれを超えた何かがあるのか?というような、つまり人間にとっての現実性が、リアルな命題として浮かび上がってくるのです。映画が全力で「これは偽物のお話です」と告白してくれているおかげで、再現性としてリアルを、現実性としてのリアルから切り離して見るることができる。それは僕にとって、とても気持ちの良いことでした。

 

一方で、この二つのリアル、「再現性」と「現実性」を一致させよう、素晴らしい血しぶきをつくりあげ、もはやそれが映画であることを忘れさせることが、「現実性」をつかむ方法である、という作り方もあるとは思います。僕の今回の現れる、という言い方や、先ほど吉村さんが言われたつくり方は、ある意味では自作自演ですよね。前提条件となるコンテクストがあたかも外部から来たかのように扱っているわけですけれど、それを隠してしまわずに、むしろきちんと告白しようとしているうようなところがある。これは全部つくりものですよ、ということを最初に告白しつつ、そこから何らかの「現実性」のようなものを立ち上げようとするような。

 

私たちは、自然につくられた街並みに感動するというようなことを、自分自身で計画することは、基本的にできません。それは、再現性と現実性を一致させようとすることのように思える。じゃあ、作家の帽子を被った僕たちは、どうすれば現実性を掴むことができるのだろうか。そんな悩みが僕に、リアルについての原稿を書かせました。今日の吉村さんの発表を聞き、あるいは青木さんのリノベーションが、他のリノベーションとはどこか違う感じがする、その感覚は、そんな悩みにひとつの視点を与えてくれたように感じました。

 

吉村 それは面白い話ですね。建築って圧倒的に現実なはずなんですが、建築家の作品って、それが現実なのかどうかよく分からなくなる時がありますよね。たしかに現実に実体を伴ってそこに建っているのだけれども、それでもなお、現実とは見られないような状況がときどき発生する。空間を現実として捉えるレイヤー以外にいろんな情報が重なって同時に頭の中に入って来るからかな。それが署名の効果だと思う。アノニマスならば良いというつもりはなくて、署名も重要。両方とも必要だと僕は思いますね。

 

もう一つ思ったのは、建築という単位が非常に生きにくい世の中なのかな、と。家で仕事も冠婚葬祭もこなしていたとか、寺が学校でもあったというような時代は、建築の中に社会があった。建築との関わりが濃かったと思うんです。でも、今、そんな風に建築を使う人はいない。市民の経験が都市に溶け出している時代です。いかなる人も、都市に暮らすとはすなわち、経験の中では複数の設計主体を十分受け入れているということです。ユーザーにとってはそれが自然です。けれども、建築は依然として建築家によってつくられつづけている。建築だけを切り出してみると非常に不自然に見えるはずです。

 

一方、リノベーションとは他者を受け入れた建築行為です。誰か原作者がいて、それに他の誰かが手を加えるのですから、複数の主体が共存している状態。とても都市的、あるいは社会的なんです。都市の中からリノベーションを切り出して見ても、設計主体が限定的であることへの違和感はないと思います。新築という単位だけが、建築家の署名が極端に発現しやすい構造になっているというか……。ただ、それを何となくみんなが乗り越えなければいけないと感じている、と今日、分かった気がします。

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