イベントレポート詳細Details of an event

第58回AGC Studio Design Forum
U-35 Young Architect Japan. 開催記念トークイベント 第二部

2015年4月24日(金)
講演会/セミナー

ショートレクチャー

 

 

五十嵐 こんばんは、五十嵐と申します。今日はガラスの話を考えていたのですが、僕はガラスをあまり使わないと言うか、生まれ育った場所が寒冷地(北海道)だったため、ガラスに対する認識が、みなさんと違うところがあると感じています。先ほど若手の方々のプレゼンやトークセッションを聞いていて思ったのは、コンペの細かいレギュレーションは詳しく知りませんけれど、全部、ガラスでやらなければいけないかのようなところに違和感を感じました(*コンペの規定はそうではない)。木造でもそうなのですが、現在、巨大な木造建築などをつくってくれ、という行政の方針を見かけますが、全部木造だけでやるというのは所詮無理な話で、ハイブリッドにせざるを得ない。方針に従って取り組んでも結局、木造を使っている比率が高い、という建物になるのだけれど、それと同じで建物全てをガラスでやるというのは、不可能ですよね。隣の佐藤淳さんに言わせると「不可能じゃない」と言われそうですが(笑)、ガラス至上主義みたいに負荷をかけて建物をつくる意味が、どこにあるのだろう、と思って聞いていました。

 

 僕は以前、麻布の三保谷硝子さんを見学に行ったことがあるんです。そこの工場の上に倉庫があり、それがすごい倉庫なのです。倉俣史朗さんが試作を重ねた残骸がたくさん残っている。そこを見せてもらった時、鳥肌が立って、僕が倉俣さんのファンだということを知っていて三保谷硝子の社長さんが見せてくれたわけですが、ああいうものを見てしまうと、今日、見たものなどはあまり評価できない(笑)。どうでもいいようなことを一生懸命に頑張っているな、と(笑)。その工場でいちばんすごかったのが「光学ガラス」というもので、僕はそれがどういうものか、よく知らないのですが、最近だと吉岡徳仁さんがベンチで使っていたり、杉本博司さんも似たような使い方をしたりしているのですけれど、あれって、工場で押し出される型そのまま、なんですよね。つまり、吉岡徳仁は何もデザインをしていない。その塊をポンと置いて「格好いいだろう」と言っているだけなんです。でも、それに気付いて最初に実践したのは吉岡徳仁だったということです。で、ああいう塊を見ると、それは凄まじく魅力的だと感じる一方で、「だからと言って、これが何になるのか?」「それがどうした?」とも思うわけです。今日、レクチャーを簡単にしますが、そこで使う資料は今回のために作ったわけではなく、最近、仕事で考えていることに関連して作ったレクチャーレターです。

 

 僕にとってガラスと言えば、「窓」なのです。僕は今年で46歳なのですが、僕が子どもの頃に育った家は単板ガラスで、アルミサッシで内側に木の建具が入っているような家で生まれ育って、その後、昭和55年くらいに、家の窓が樹脂サッシへと変わったのです。子どもの頃の窓のイメージは「とにかく寒くて劣悪だ」というものでしたから、窓枠が樹脂に変わった時に「ずいぶんと変わるものだな」と思ったのです。その頃はまだ建築に興味があったわけではなく、環境工学などもまったく知らないのですが、科学技術、テクノロジーの進化は「こういうことなのか」と思ったのです。当時は薪ストーブというものも北海道では多く見られたのですが、それがなくなって、家の中がセントラルヒーティングに変わった時なども、そういう変化を強く感じました。

 

それで、今日、ここに来て思い出したのは、高松にある「披雲閣」のことです。高松城跡地に大正期に建てられたもので、書物の解説によると、この建物は日本で初めて建築にたくさんガラスが使われたものとなっています。第一部のトークで平沼さんから「障子」や「掃き出し」に関する話がありましたけれど、障子はやむを得ず使っていた材料と思いますね。安くて、簡単に施工できて、光も入る、と。また破れてもすぐに交換可能なものだったわけです。建築というのは、その時々の技術や流通などもろもろの社会状況を反映してでき上がっていくものだから、障子が使われたのは当然の結果だったわけですね。そして我々が建築を見た時に、どうしてもノスタルジーが入り込んでしまい、「いやぁ、障子はやはり和風で素晴らしいよね」などとほめるわけですね。そういう側面を否定はしませんが、冷静に見ると、そんなに素晴らしいわけではなく、やはり、物理的な要件から使わざるを得なかったわけですね。一方、披雲閣も大豪邸みたいなものだから、障子を使わずに、あれだけ巨大なガラス面を設けることができたわけです。行ってみると、本当に、「(ガラスを使うことで)建築が劇的に変わるんだ」「その当時、劇的に変わったんだ」というのが思い浮かぶわけで。そういうことが想像されたので、僕は、披雲閣を見た時に非常に感動したのです。だから、ガラスを使った建築として披雲閣はおすすめの見学対象です。

 

 さて、今日は窓ばかりの話をします。窓の断面というのは、先ほど木造のハイブリッドに関する話が出たように、結局、ガラスだけでは(建物は)どうにもならないわけですね。ガラスは建築において超絶に重要な素材だと思っているのです。光を取り込む開口部のことを考えると、ガラスは最も適した材料ですね。ガラスは建築素材の中で唯一劣化がない、劣化がほぼないものだと認識されています。一方、アルミやステンレスなどの金属類は、劣化しないと言われていますが、結局は劣化してしまうのです。そういう点でガラスは外皮として最高のものだと思います。詳しい加工についてはよく知りませんが、とくに屋根や壁に使うと、そういう外皮に使うと、ガラスは完璧な素材と思います。

 

ただし、(図に示す)こういう取り合いの部分が問題で、このような部分がどうしてもできてしまう。こうしたサッシ断面を見れば見るほど、こういう部分がダメなんですよね。すべてここ(ガラスと他素材の接合部分)が悪さをしてしまうのです。この図は、ペアサッシの断面ですけれど、これがたとえトリプルガラスの断面になっても、(とくに北海道では)ここが結露してしまいます。どんなにガラスの性能が良くても、必ず結露してしまう。冬にガラスの温度を測りますよね。例えば外気温がマイナス15℃くらいでも室内を20℃くらいを保てるガラス(サッシ)があるんですよ。でも、この部分だけがどうにもならない。だから断面だけは、総体として考えざるを得ないのだけれど、重要なのは、そういうことを考えつつも、「何で窓は性能で考えなければならないのか?」という根本的なことです。みんな、それを忘れてしまうのです。

 

室内の状態をある状態に保つというのが最大の目標なのですが、建築の世界を見渡すと、今日の高栄君の作品などもそうで、それをおざなりにしてしまうことが多い。例えばサーカス小屋へ行って、そこで曲芸を見せられているようにしか見えないのです。曲芸は、人を楽しませる目的があるから、それはそれでいいのだけれど、その背後に「何か」があってほしいわけです。大げさに言うとその曲芸が人類のために役に立つとか、そういう大きなビジョンが隠れていてほしいのです。だから、1階に展示された今回の作品を見たけれども、僕は全然、おもしろくなかった。曲芸を見せられると、みんな、一瞬は喜ぶんですよ。その時だけは飛びつく。また、山に喩えて言うと、細長い山をつくっても仕様がないと思うんですよ。山にはきちんとした裾野がないと、さみしい。富士山がきれいなのは稜線がきれいなだけではなく、でっかい裾野が広がっているからです。そうした、裾野の広がるアイデアを提示してほしい。僕が、なぜ倉俣史朗を好きなのか、と考えると、彼のアイデアには恐ろしいほどの量の、裾野のアイデアが隠れていると僕は思うわけです。彼は特殊なことをやっていたように見えますが、ものすごい夢があった。その夢というのは人類共通の糧になるものだから、曲芸とは全然違うのです。

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