イベントレポート詳細Details of an event

第34回 AGC studioデザインフォーラム
「新しい建築の楽しさ2013」展連動企画 講演会”集まって住む”

2013年8月29日(木)
講演会/セミナー

●トークセッション

 

中崎 まず、まだ発言されていない中川エリカさんと成瀬友梨さんから、発表を聞いた感想や他の方への質問などがあればお願いします。

 

中川 「集まって住む」と言うと、何よりも共有・共用部分を大事にしそうですけれど、私たちを含めみなさんが、実は専有部分を非常に重要視しているということがおもしろいと感じました。
藤野さんのプレゼンで「設計者の関わりとして一番ドライ」という発言がありましたね。確かに三者とも大きい場所があるから集まるわけではないと考えていて、集まる場所そのものだけではなく、集まる関係性を大事にしている。シェアハウスと長屋とコーポラティブでは、その関係性がそれぞれ微妙に違うと感じました。
そういう集まる質の違いについてお伺いしたいです。

 

藤野 今日の3組の違いを考えてみると、距離感が違うと思います。
まず、オンデザインさんは、コーポラティブということもあって各施主が設計のプロセスに強く関われる。
成瀬・猪熊さんのシェアハウスは、もともと形式として血縁関係でない方々が住む。しかしプレゼンを聞いていると、個室とリビングのある住宅のようにも思えた。ただ、その人と人の関係が従来の家族ではなく、その距離感が違う。

 

私の長屋の場合は、どんな人たちが入居するのかまったく分からないし、入居が始まると関わりようもない。そういった距離感の違いが空間の関係性に現れてくる。距離感と設計にかかわる自由度が違うのだろうと思います。
コーポラティブでは入居者が設計にまで関われる自由度が高い。シェアハウスでは、賃貸なので建築のプロセスに入居者が関わることはなく、逆に建築家からすると自分の手を離れてから入居が始まる。そうすると独りで居られる場所や独りで居ることを大事にしようとする。そこの部分が大きく違うと感じて聞いていました。

 

成瀬 先ほど猪熊のプレゼンにあったと思いますが、シェアハウスに入居する人たちが全員一緒にイベントをやっているイメージがある一方で、私たちはシェアすることが苦手な人、共有や集まることが得意でない人でも心地よくいられることを考えました。共用部の中でも独りで居られる心地よさを追究しました。

 

一方、藤野さんのプロジェクトは集合住宅を依頼された際に、常に感じる難しさがありますよね。やはり、つくった後、建築家が関われないので、住人同士の距離をどれくらい近づけていいのか難しい部分がありますよね。これは地域性とも関係してきます。
例えば計画地が東京だったら、もっと互いに見えてしまっても問題なく住める人がたくさんいると思うし、群馬であればもっと距離を置かなければならないとか、埼玉の場合はあの程度が最適だと思われたのだろうと感じます。
それに対し、コーポラティブではつくっていく過程で各施主さんと個別に付き合えます。オンデザインさんはきっと竣工後も戸建ての施主さんと同じような距離感で付き合っていかれるのでしょう。

 

私たちのシェアハウスでは、できてしまえば関われないと思っていました。ところが先日、訪問した際に設計者として受け入れてもらえた。それはシェアハウスが持つオープンさなのかもしれません。外の人が関わりやすい雰囲気があるように感じました。
たぶん自分の友人を連れて行ってもとけ込めそうな雰囲気があるので、人が集まって住む場所としては、それ以外の外部の人も受け入れられる場所になっているように感じています。

 

西田 僕は中崎さんにも聞いてみたいのです。今日は「集まって住む」というテーマであるにも関わらず、成瀬・猪熊さんのプレゼンでは「独りの場所を大切にする」と言う。また藤野さんも「輪郭を囲った上で、その専有部分を個人的に開いていく」という、個を中心に据えた話の内容になった。
この「集まって」というときの集まり方、言い換えれば、「集まって」という質が変わってきているのではないかとさえ思える。で、今話し合っている内容が、中崎さんが想定していた範疇なのかどうか気になるのです。

 

 

中崎 今回の企画展では前期分として9つのプロジェクトがありました。その中に畑友洋さんが取り組んでおられるネットワーク型集合住宅というプロジェクトがあり、これは集まって住まないのだけれど、場所と建物は共用・共有するという提案でした。だから、今日の会場に畑さんがいるともっとおもしろくなると想像していたのですが(笑)。

 

実のところ私は「集まってもつながりはなかなかつくれない」と思っているのです。けれど、それが建築の力でつくれるのかどうかを確認したいという気持ちがあって、なんとかつながれるんじゃないか、と。
以前、猪熊さんからお聞きしたのですけれど、シェアハウスの人たちは1~2年で他へ移っていく、と。つまり、1年くらいはつながってもそれ以上のつながりを求めないということなのでしょう。
みんないろいろなタイプの集まり、つながりの仕方があっていいと思う。

 

西田 なるほど。猪熊さんのプレゼンの中に「新しいつながりは何か?」という問い掛けがありましたよね。でも猪熊さんが言われているのは「独りが大事だ」ということであり、先に中崎さんが指摘しておられた「集まってもつながらないし、集めたところでつながらない」という現実です。
ただ、それは今日、この会場に来られたみなさんが感じていることだと思う。
新しい公共みたいなものは与えられるのではなく、自ら開いて行くところから創っていくのではないかと、設計をしながら考えています。
自分の持っているものを外に出していくという行為や、藤野さんが言われた「自分の外部スペースを外に広げていく」というのは、独りでは持ちきれない価値がそこにあるからだろうと思います。

 

僕が最初に紹介したヨコハマアパートメントも、常にあんなようなイベントをしているわけではありません。ただある日、そこへ行くと突然お茶会が開かれていたり、共用部に街中のカフェみたいなものが出現していたりする。そういう発見の楽しさがあり、互いに顔の見える距離で生まれる公共性の価値のようなものだと思っています。
コーポラティブガーデンでかたち作られる風景は設計者だけではできなくて、設計者以外の住人たちによってできてくる。集まるというのが、コミュニケーションするということにとどまらず、自分一人ではできない発見があるという、そういう価値なのではないかと思います。

 

藤野 ただ集まって暮らすというのは、昔は、使用人までを含めた大家族が暮らしていた家、それから下宿、あるいは漫画家が集まった「ときわ荘」みたいに、いつの時代も家族だけが構成員ではなかった。住み方のバリエーションは本当にたくさんあったと思います。
だから、今、シェアハウスは新しいと思われているようだけれど、決して新しくはない。むしろ、いろいろな住まい方に対して建築がどう応えるのか、というところがおもしろい。

 

建築のおもしろさは、プログラムがおもしろいから建築もおもしろくなるのではなく、例えばシェアハウスの居室にちょっとしたアルコーブを設けたり、共用部との距離感が1階と2階で違っていたりするなど、そういう建築の工夫がおもしろいのです。
だからそれは住宅を改修したシェアハウスと自ずと違ってくる。多様な集まり方が生まれる。建築がどのように応えるかが大事で、そこが新しくて、おもしろい。

 

オンデザインさんのコーポラティブガーデンでは、デザインに入居者が深く関わる、その集まり方を建築でどう解くのかのおもしろさがあると感じます。

 

猪熊 僕もそこが大事だと思います。シェアハウスはオペレーションが、いい運営者がいないと成立しません。そこで設計によってその微妙な距離感のオペレーションが成立するかどうかが重要です。
ヨコハマアパートメントはそういう細かいオペレーションまで入っていっているし、藤野さんの長屋では集合住宅という枠組みの中で、すごく丁寧に設計していると思います。

 

いずれにせよ、設計の範囲がどこまでかによって、それぞれ違うのですが、設計の精度をこれまでより高めることによって成立しているところは共通していると思います。
また、集まり方の関係性の違いについては、時間的な広がりまで考えるとおもしろい。
確かに、シェアハウスではみんな2年程度で出て行ってしまうんですよ。すごく気に入った仲のいい関係になると、中には5年とかいる人もいたりするんですが、短いタームで出て行く関係のほうが一瞬、ウエットな関係になる。

 

一方、オンデザインさんや藤野さんのプロジェクトのように比較的専有部分が多いものは10年、20年といった長い時間軸になると思う。住む時期や年齢などに応じてどういう環境を選べるかという問題があって、生まれてから死ぬまでにどういったコミュニティの中を渡り歩いていくかの選択肢の一つとして多様なバリエーションがあることに意味があるような気がします。

 

今回、我々が独りを強調したのは、シェアハウスにウエットなイメージがあるだろうということもあります。西田さんや中崎さんのご指摘にあった「新しい公共」は、人が集まらない限り起こり得ないことです。その一方で公共に対して広がっていける人というのは、基本的に不自由なレベルをクリアした人たちだからこそ可能になる。
陸前高田のコミュニティカフェもそうで、みなさん被災者なんですが、同じ被災者でも個である程度やっていける(余裕のある)人がいるから成立している。やはり、自分をきちんと確保できない限り、外や公共へ開いていけないと思います。自分のものを全部削り取られてなお新しい公共のために、とはならない。
新しい公共は、辛くないペースでのボランタリーでないとつながっていけません。

 

中崎 そろそろ時間オーバーです。考えてみると都市そのものが「集まって住む」ということだと思います。その中でどのように場所を用意するかが建築家に求められています。大震災を体験した今、家を失った時に、また作れるのか? また作るのか? と切実に思います。
一方、集合住宅だと空いている部屋を提供することもできます。住む場所を必要としている人に、都市が何を用意できるかが大事と思います。

 

*この後、会場からの質疑を受け終了。

 

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