イベントレポート詳細Details of an event

第33回 AGC studioデザインフォーラム
「新しい建築の楽しさ2013」展連動企画 講演会”個の思いと向き合う”

2013年8月8日(木)
講演会/セミナー

●トークセッション

 

中﨑 最後に発表された山口さんはラオスの雄大な場所でプロジェクトを進めていらっしゃいますが、平瀬さんは、設計を学ばれた際にスイスとの関わりがあり、原田さんはスペインでしたよね。そこで、お二人に日本と外国との違いを感じることがあれば、ちょっと触れていただけますか?

 

 

原田 圧倒的に違いますね(笑)。スペインは基本的にわがままで、みんな「俺だ、俺だ」という文化ですよね。
ラオスもそのようでしたが、日本と違い、世界では世の中がそれほど整っていません。スペインでも当然、期日や工期は間に合わないし、意図的に支配されていない日常が広がっており、ラオスほどではないかもしれませんが、人があるシステムの中で窮屈に暮らしているという感覚ではないですね。
そういうもの(支配的なもの)に対してスペインの人はとても反発する。私が私である。私が、社会の基本的な構成単位である。だから、私が幸せであるということが何よりも大事なのだ、と常に主張します。その結果、工期や仕上がりが送れても当たり前で、クライアントや設計者も「しょうがないだろう」と思う。

 

平瀬 スイスはローカリティが非常に強いという印象です。
各土地が固有に持っている工法や素材があり、均質化もあまりされていない。その集落だけにある工法を現代に翻訳している建築家がいて、それがどの集落にもいたりする。それは(今の)日本ではあまりないことですよね。
例えば、町医者みたいなかたちで、何か困ったことがあれば地元の建築家に連絡して駆けつけてもらう。そういう存在が地域にあり、各地域や場所を読み込むという行為がすごく強い。日本だと今はそういうことの正統性があまりないような気がします。そこが大きく違いますね。
また「個の思い」という点についても当然、そこの場所にあるものを使ってくださいというのが当たり前で、ですから全国一律に流通している日本の建材みたいな状況はないこともないですが、それが主流ではありません。

 

中﨑 ありがとうございます。
さて、個の思いをストレートに建築へ表現しても、実はそれはあまり魅力的ではないかもしれない。やはり、個の思いを共感してもらうことが大事だと思うのです。みなさんが建築家として、クライアントの思いを超えて、周囲や社会に共感してもらうために、どのようなことを考え、表現されたかを、お聞かせいただけませんか?

 

山口 ラオスのプロジェクトの場合は、発注者が20代の女性でして、先ほど話したように彼女の家ではあるけれども、家というよりは客を招いてパーティーなどを開くというのが主な使用目的なので、そこにどのようなファンクションを設定するかが非常に重要でした。
具体的に言うと、例えば家なのでキッチンが必要ですし、それを設けるのですが、彼女自身はまったく料理をしません。実際に料理を作る場所は別にあって、その巨大な厨房で作られた料理が使用人によって運ばれて来る。ただし「見せるためのキッチンが欲しい」とクライアントは思っている。
まあ、そのキッチン自体も大きなものになりますけれど、来る人に対してアピールするための設計が必要になります。
彼女の好みはあるにしても、PRとしてのキッチン空間を考え、デザインや材料を決めています。

 

原田 今回の「個の思いと向き合う」というテーマ設定は微妙だな、と感じました。というのは、やはり建築は社会的なものであって個のためにつくると「私小説的だ」と侮辱の声を投げつけられる。ただ、僕はそれがおもしろいと思っています。
そもそも社会と個は対立概念なのか、という疑念があって、社会は個を不幸にするためにあるのではなく、個を幸せにするために存在する。こう言うとスペイン人的、ラテン的かもしれませんが「私のための社会でもある」わけです。
だから、社会の基本的な構成単位として個人が居るというのは、社会の原則だと思うし、そのために建築をやっている部分もある。社会は個々のものたちでできているが、個に閉じこもってしまうのではなく、やはり共感できるものでなければならない。
そこで、個と向き合う前に、自分も個であることをきちんと考える。世界を独りの人間として抽象化して理解していく。そんなようなことをみんなが考え始めて、それによって共感が起こっていけばいいな、と考えています。
「私がここに居ます」ということをザワザワと触発できるような建築をできたら、世界を肯定していると思われますし、社会を否定せず、群れとしての全体の価値の創造や社会の活力にもつながると思います。

 

ハモニカ横丁ミタカはまさにそんなプロジェクトで、個々の思いが非常に強くて、全体のシステムに支配されるのではなく、自分たちでシステムを立ち上げていこうという、全共闘世代の人たちが中心なのです。
個々の人たちが、その場所を解釈して自分の場をつくるように環境を積み上げていく。そういう場所のほうが人を呼ぶのです。共感してもらえる。お客さんが集まって来るのです。

 

平瀬 僕自身は東京で生まれ育ち、建築も東京で学びました。東京の大学で設計活動をしている時、たまたま群馬の山奥で仕事をさせてもらい、建築ができた時の波及力をすごく感じさせられた体験があります。
1個の建築が建つことで、ある種のムラ社会と建築の関係を目の当たりにする機会がありました。

 

スイスでもムラ社会が残っていて、ある建築ができることに対して、その建築の是非についての国民投票があったりもします。
例えば、ザハ・ハディドが設計した劇場が国民の反対運動で建てられなかったこともありました。そのくらい建築がみんなの共有物になっている。
いま、佐賀に移って設計活動をしていると、似たようなことを感じることがあります。ある意味でムラ社会であり、東京のような匿名性や個人性が薄く、何かやろうとすると、何だ、何だ、とみんな寄ってくる。
これは良い面、悪い面の両方あると思いますが、良い面としては、建築をつくった時、自ずと個の中に収まらない。それがきっかけでまちづくりにつながるかもしれないし、さまざまな起爆剤にも成り得る、という気がします。
つくり方として、東京に居た頃とは違うことができると感じています。東京で建築をやっていると、どうしても隣に対して閉ざす傾向がありますよね。そのあたりについて、東京と佐賀を行き来してみると、建築が持つ力の大きさを改めて感じます。

 

中﨑 原田さんから、他の2人に対して、感想や質問はありませんか?

 

 

原田 2人ともうらやましいと感じます。だって、パチンコ屋さんじゃないもん(笑)。歴史的な建造物だし、大きなスケールだし。

 

さっき平瀬さんが言われたムラ社会に関する話は、まったく同じ状況がスペインにもあります。スペインではみんな、建物を自分のものだと思っています。公共的というのは自分が広がったもの、という感覚があって、それが羨ましく感じます。ヘンなものをつくるとすぐ首長の首が飛ぶし、新聞の日曜版にも建築の記事がたくさん載っている。
世界はつくってもらうものではなく、つくるもの」という意識がスペインにはあります。建築をつくっていこうという動きに対して自分自身もそこに参与することで、都市や建築を介して、個人と社会がつながっている。
そういう仕事を日本でもできないか、と思うのです。「民間と公」という対比で考えるとあちらとこちら側に分断されてしまいますが、「私と社会」で考えれば、パブリックは、私でも、民間でもつくられると思う。

 

「第三の公共」みたいなもので、もともと社会的なものはそうやってつくらねばならないと思うのです。そういうものをつくるチャンスが、建築家にはある。

 

最近、「官から公」へ概念のシフトが起きているような気がします。そこで、平瀬さんの銀行のリノベーションについて、民間や個人のプロジェクトではありますが、そういう感覚をお持ちなのではないか、民がつくるパブリックだからおもしろいと感じました。佐賀県では公立図書館をツタヤが運営をしている例もあるじゃないですか。

 

平瀬 佐賀は自治体の規模が小さいので公と個が近いような気がします。旧銀行のプロジェクトについても、クライアントに物件を案内してもらう際に、なぜか行政の人たちもついて来ましたからね。
酒蔵のプロジェクトでも、行政の力が弱まって、民間である酒造メーカーのほうが力を持っている。いきなり世界一の賞をもらったりするので、集客力があるし、流れが変わるんですよ。そこに行政の人たちが期待を寄せ始めているのではないかと感じます。
まあ、世代の問題もあると思うのですが、40代くらいの行政マンはすごく柔軟です。佐賀はいろんな建築家を呼び込んでいますし、それは隣の福岡と違うような気がします。都市の規模、自治体の規模が小さいところはそうなってきている。
ご指摘の武雄市のツタヤ図書館は、やはり民間の力が大きかったと思います。

 

原田 官がつくるパブリックスペースはほとんど失敗していますよね。それは民のセンスが、普通の人の感覚が入ってないからです。そこを何とかしようと、行政の中へ入っていく民間人も出てきていますね。
僕も最近、公共の仕事をとることができたのですけれど、それを発注した市長さんは会社経営をしていた人です。市の役人も「市長」とは呼ばず「社長」と呼んでいる(笑)。そういう民から出てきた人が公の力を使うことで活性化が起こり始めている

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