イベントレポート詳細Details of an event

第27回 AGC studioデザインフォーラム
陸前高田発 ”地域の力” 明日へ ~暮らしの再建・地域の再生~

2013年2月23日(土)
講演会/セミナー

城本 それでは次に、震災後に陸前高田へ移住してきて起業した、高橋さんの報告をお願いします。

 


高橋 バンザイ・ファクトリーの高橋です。陸前高田で主に木工と製麺業を営んでおります。
私のプロフィールはちょっと複雑で、出身は陸前高田ではなく、内陸部の紫波郡というところで生まれています。家庭の事情で4歳のときに筑前高田の叔父の家に預けられて育ちました。

 

その後、高度成長期の頃はどこの地方でもそのようなことを言ったと思いますけれど「陸前高田に居ても夢がないので、ここを出て行ったほうがいい」という叔父の言いつけに従って、中学、高校は盛岡など内陸や他の土地の学校で学びました。
それから東京の大学に入ったのですが、また事情があって中退し、大手企業でサービスやソフト開発、営業等を経験した後、少しお金が貯まったのでアメリカの大学に留学しましたが、家庭の関係で中退しました。

 

帰国して29歳の時、6畳間で会社を起業し、この時も昔から知っていた陸前高田の会社社長さんから支援を受けたということが、去年、陸前高田に居住したきっかけになっています。その時は医療情報システムのソフト開発をしまして、その後また盛岡で創業し、米国の大手ソフト会社と提携しながら、要するに起業家として成功したのですが、45歳でその会社を売却いたしました。

 

その後は木工を手掛け始めていたのです。岩手というのは国産漆の70%を生産しておりましたが、当時、岩手の木工業がどんどん衰退・倒産していて、担い手が減って困っていた。「それなら!」ということで木工に乗り出したところ、あの震災、津波が襲いました。
陸前高田には親戚もなくなり、幼い頃の同級生すらもうわからない、地縁がほとんど残っていない、見知らぬ土地になっていたのですが、何ができるだろうかと考えました。
もちろんボランティアとか、寄付というやり方もあるでしょう。それもやりましたが、やっぱりそれは自分らしくない。そこで仮設住宅などを訪ね、被災した方々と話し「自分にできることは何だろうか」と考えた時、やはり、ゼロから会社をつくるしかない、と思ったのです。家や家族を失くした方々が言うには「働く場所が必要だよね」ということだったのです。

 

最初は6人の方々に頼んで、お猪口に漆を塗ってもらう作業をしました。被災した松を加工した猪口に漆を塗ります。
手間賃は1個400円で、「まんず、やってみっペか!」と2、3ヶ月続けていたところ「仮設住宅に籠って独りでやるのは寂しい、滅入ってくる」とみなさんが言われるので「んじゃ、集会所でやるべ!」とみんな集会所に集まって楽しく作業するようになりました。
そしたら、「集会所を勝手に使うな!」と言い出す他の人も出てきますよね。そこで、作業の手間賃の一部から集会場の運営費を出すということを提案し、おおっぴらに異存なくやれるようになりました。
私も独自の工場を造ろうと、土地を探しに行っていたのですが、なかなかなくて、結局は家も建てて幼稚園児を含めた家族5人で陸前高田に引っ越して来たのです。

 

今日は、武蔵さんから「このフォーラムに出てくれ」と言われて来た次第ですが、パネリストとしての出席を誘われた理由は、たぶん宮古から釜石に至る三陸のエリアで、地元以外の人で、震災後に家族まで連れて移住して来て家や工場を建てて起業した人は、まだ私1人らしいのです
もちろん、難しいこと、プレッシャーもあります。もともとはITを専門としていた人間ですから。しかし、陸前高田でいきなりITをやろうというのもね。(笑)
かつて「陸前高田から出て夢を追え」と命じられた人間ですし、周囲からも「今、そんな厳しい状況で行くの?」と、半ば止められたりもしたのですが、過去にすごくきつい人生を歩んで乗り越えて来た自分がやらなければ、新しい人は誰も陸前高田に入って来られなくなる、と思ったのです。

 

というわけで、家を売って預金も解約し、陸前高田へ来ました。まあ、木工以外で何をするべか? と考えていたのですが、あるストーリーが浮かびました。千昌夫の「星影のワルツ」という歌がありますよね。昔、高田松原の中で流れているのを聞いた思い出もあります。そこから発想した「星影のパスタ」を製造しよう、と考えたのです。
東京のコンビニなんかでは、よくパスタの弁当なんかを見かけますよね。パスタは街の食べものですが、「高田くんだりまで来て、どこでもあるようなものを作ってもだめだ」と思いました。

 

それと、私の起こす会社は被災企業ではないので、「被災した者です」とも言えない。もちろん、うちで働いているかあちゃんたちは被災者なんですが、「私たちは家族や家をなくした者です」というような攻め方や売り方をしたくはない。
たまたま、東京の日本製粉の方と出会うきっかけがあって始めたのですが、うちの娘がいっそ「麺を星型にしたら?」と言うので、挑戦してみたのです。

 

調べてみると星型の生麺は世界にまだ存在していなかった。そこで、被災直後からノズルなどを研究して開発に取り組みました。麺やパスタの製造を学びながら挑戦しました。もう1年間、毎日パスタを作っては食べて、の繰り返しで、今は、もう見るのも嫌ですが、みなさんも毎日食べてみられるとわかりますよ。(笑)もちろんやる以上は東京にも負けないものを作る、と。
長くなるので割愛しますが、要するになんとか成功しました。
そうやって工場のみなさんに800円~1000円の時給を払っていまして、今は11人になっています。

 

この「星影のパスタ」は開発後から3ヶ月目にイオンで売り出したのです。最初はイオン琉球から「みんな買ってやるから」「販売イベントを開くのでおっかちゃんたちも連れて来て」と言われ、袋詰めしたパスタを1800食分用意しました。
みんなで沖縄まで行き、「どうぞ、うちのパスタ食べてけれ~」とやりました。結局、4日の短期間で合計3000食も売れたんですよ。圧倒的な量でね、私もそれで自信をつけました。今はそれほど売れていないんですが(笑)、少しずつ順調に、というところです。
で、その沖縄のイベントの後におかあちゃんたちが言うには、「ありがとうの言葉をものすごく言った」と。それまでは「陸前高田に来てくれて」、「ボランティアをしてくれて」、「支援をしてくれて」、の「ありがとう」だったのが、その時は買ってくれての「ありがとう」だ、「おいしかった」という反応に対しての「ありがとう」だと言って、みんな心が熱くなったと言うんです。働くこと、社会参加することの喜びをみんなが感じました。新しい「ありがとう」を作れた、と。この沖縄で撮った写真に写っている女性たちは、そうやってみんなで支え合ってきた人たちなんです。
それから、私の娘が大学4年生なので、工場へ手伝いに来て、みなさんの姿を見て驚くんです。普通、時給仕事なんかだと「これやって」「あれやって」と指示しないと、働かない人、体を動かせない人が多いものですよね。
ところが、この人たちは、指示なんかしなくても自分から動ける人たちなんです。どんどん自分たちで改善し、独自に考えて研究もする人たちです。私も現場で一緒に働いていますけれど、取材に来た人たちから見ると、私がいちばん弱々しく映るらしい(笑)。

 

私はずっとIT関連の仕事をしてきましたけれど「陸前高田には、こういう仕事のできる方々がいるんだ」という発見をしました。すごいです。
最近は製麺に加え、木工もやっています。この写真が工房で、こちらが風力発電です。
東日本地域で、個人で5キロワット以上の風力発電をしている人はまだいないらしい。風力発電から蓄電してエアコンを動かして、スマートフォンから電気や風呂のコントロールもできるようにしています。

 

とりあえず、こんなところです。

 

城本 ありがとうございました。確かに被災直後は助けが必要だった。しかしながらやはり、自分で働いて、人の役に立つ、ということにつながらないと、本当の復興に至らないのだと感じますね。

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